日本上陸から4年で50店舗達成!出店スピードに人材育成が間に合わない!?
アメリカ本部から提供されていたトレーニングツールがいつの間にか見当たらなくなり、尻切れとんぼのように消滅した感が
最初の店長任命を受けてから3年間、新規オープン1店を含めて5店舗を店長として担当し、その間、多くの中途社員とアルバイトを受け入れてきた。当時の店舗数は50店舗。多種多様な個性あふれるメンバーが集まっていた。その頃はアメリカ ドミノピザ本社との契約に従った出店計画が展開されており、人材採用と育成が命題として挙げられていた。
人材育成のプログラムは「100Steps」というものがアメリカ本部から提供されていた。これは新人から店長になるまでの必要スキル項目100個が習得ステップで明記された、縦100cmほどの巻き物のような長いシートでマネジャールームに掲示し、進捗確認できるようにしたものだった。
私がアルバイト時代に入社してきた中途社員の方々は各自の100Stepsが用意され、掲示して活用していたことを覚えている。しかし正社員になった自分にはそのシートは用意してもらえず、また周囲の先輩たちも同様で、いつの間にか尻切れとんぼのように消滅した感があった。
それは、創業期あるある話である出店先行を余儀なくされ、本来の必要スキル習得前の半人前でも店長として任命し、店長を任せざるを得ない状況があったのだと振り返る。そして、出店後に本来ならばその不十分なスキル習得を補うために店長着任後にサポートすべきことであるはずだが、その術と時間的余裕はそこにはなかったと感じている。
まさにこの頃、会社から教育訓練課への異動の打診あったのだ。
私は人に何かを教えることは嫌いではなかった。学生時代は小学校の先生に憧れていたくらいで、むしろ希望していた部署であり、思わず声が出るくらい嬉しかった。正社員になった当時に自主作成したインストア業務のマニュアルの存在も、この異動の決定の要因だったのではと感じていた。ただいきなり責任者としての着任は不安が先行していた。
異動時に先輩から店舗の引継ぎである「店舗の引継ぎ書」での引継ぎをしたのだが、店舗でピザを作ってデリバリーすることでお客様に喜んでいただくことに注力してきた自分にはかなり難解な内容だった。それは、現在のニーズとそれに対して実践していること、そして不足していること、さらには中期的ニーズと課題が資料に整理されていたものだったからだ。
これまで目先の対応しかやってこなかった自分にとって、課題の本質を見極めることができず、特に中長期的視点での課題については思い描くことさえできなかった。結局、手っ取り早く「出店増に伴う人員採用と育成」に注力し、それまで実施していた新規入社者に対するオリエンテーション研修の見直しと効果的運用の検討を行うことから開始した。
そこでは研修講師トレーナーとしてドミノオープニングスタッフの一員であるRさんが先行して研修推進していたことが、私の不安を少し和らげてくれた。
「今やっている研修は本来の教育ではないよ…」と辛辣な声が
半人前の研修担当が意気込んで「やってあげているオーラ」を全開にした自画自賛の研修に新入社員がボイコット…
新入社員向けのオリエンテーション研修は1週間のプログラムで座学を主体に構成され、目白にある研修センターで開催されていた。毎月数名の入社者を受け入れてオペレーションの基本として、オーダーの流れとオーダーテイキング、トッピングの基本知識と手法を身につけてもらっていた。店舗配属にあたって注文が取れてトッピングができるようにしようということだった。
私は素人ながら店舗で実践してきたことをベースに、研修効率を高めるためのプログラム構成と内容の一部を改訂した。これにより受講者はより理解度が高まると自賛していた。
ある月の研修で3名の入社者を担当することになった。いつものようにパワフルに自信を持ってトレーナーとして研修を進めていた。3日目の朝、3人の様子がおかしかった。表情が曇りうつむき加減で元気がないのだ。
「今日はみんな、どうしたんだ!?元気ないな」「しっかり勉強しないと店舗配属できなくなるぞ!」
3人を鼓舞するつもりで上から目線で声をかけながら研修を続けていった。ただ相変わらず反応はなく、やる気の姿勢はそこにはなかった。午前のプログラムが終わる頃、冴えない表情を変えない3人に対して私はブチ切れた。
「お前たち、何だよ!その態度は!やる気がないなら研修をやめるぞ!!仕事内容が合わないなら辞めてもらってもいいから!!!」
感情的に口走ってランチ休憩に入った。休憩中に自身の姿勢を振り返り、反省して新たな気持ちで午後の研修に臨んでほしいという願いを叱咤に込めたつもりだった。
1時間後、午後の研修再開時間に3人は姿を見せなかった。先輩トレーナーのRさんが慌てて外に探しに行き、研修センター近くの公園で3人を見つけて研修に戻るように説得し、話を聴いてあげた。彼らは単にやる気がなかったわけでなく、受け身で聞いてばかりのスタイルに効果性を見出せていなかったのだった。
研修センターに戻った3人に感情的になったことを謝罪した私は、午後の研修をストップして彼らの意見を聴くことにした。受講生のために修正を加えたプログラムは今まで以上に効果的だと思い込んでいたが、受講生自身がわかりやすく意義を感じてもらわないと無意味であることを実感させられた。
そしてトップダインスタイルのマネジメントに嫌悪感を持ち、自分は異なったスタイルでやっていこうと決めていたにもかかわらず、新任店長時代の張りぼてマネジメントと同様に、ここでも上から目線で「やってあげているオーラ」を全開に自画自賛していたことを気付かされたのだった。
時期を同じにして、オリエンテーション研修を修了して店舗勤務を開始したあるスタッフから「今の教育訓練課がやっている研修は本来の教育ではないよ…」といった辛辣な声が聞こえてきた。
たしかに体系的な育成プログラムがあるわけではないし、新人アルバイトの受入れとほぼ同様の内容を研修と称して、気合と根性論を持ってやっていたと言っても過言ではない。ただ育成というものをどのように捉えて、どのように教育体制を構築して良いのかもわからず自信を失っていった。
店舗には不釣り合いのいかにもコンサルタントと思わせる紺のスーツをビシッとまとった少々強面がやってきた
現状を変革できていないことを指摘され叱咤されることを覚悟して会議室に向かった
研修内容の立て直しもできず、日々の講義を悶々と続けるしかない状況下で、上司から呼び出しがあった。
現状を変革できていないことを指摘され叱咤されることを覚悟して会議室に向かった。
そこで言われたことは思いもしなかった言葉だった。
「研修体系を構築するために外部のコンサルタントの力を借りることにした。お前が担当責任者として全面的にリードしてほしい。」
渡りに船とはまさにこのことだった。毎日がどこまでも続く真っ暗なトンネルを手探りで恐る恐る足を前にしている中で、出口に向かって一筋の光が刺したように感じた。ただ安心感と嬉しさでいっぱいだった反面、いつもと同様にうまくやれるのかという不安が先行していた。
プロジェクト活動の初日は高輪店でのオペレーション確認からのスタートだった。いかにもコンサルタントと思わせる紺のスーツをビシッとまとった少々強面の2人がやってきた。実はこれがJFC*との最初の出会いだった。
挨拶もそこそこに、2人は店内に入りオーダーからメイキング、デリバリーまでの流れを質問しながら確認していった。
ずっと店内で立ちっぱなしで話を続けるのは申し訳ないと感じ、説明するだけなら喫茶店のほうがいいなと思った私は2人に対してこう提案した。
「店内は座ってお話しする場所がないので、近くの喫茶店でお話ししませんか」
ああ、そうですね!という言葉を待っていたのだが、スパッとこう返された。
「目黒さん!私たちはオペレーションの流れを確認しにきたんです。だから店内で直接確認しないと意味がないんですよ!」
全ては店舗にあり現物現認からスタートするという軸が通った言葉は、闇雲に走っていた自分の姿勢を見透かされて何だか叱られたような気持ちだった。
こうしてJFC*のサポートのもとで教育体系構築の活動がスタートしていったのだった。
JFC*:ジャパン・フランチャイズ・コンサルタンツ(1977年、東京都港区赤坂に田中直孝が創業し、林俊範、小山孝雄へと承継)。フランチャイズチェーンやチェーンストアの多店舗展開に必要なビジネスモデル、人財開発や経営管理などのマニュアルや仕組みづくりためのコンサルティングや研修機関「ピープル・ビジネス・スクール」運営し大手チェーンの創業者らを輩出したピープル・ビジネス研究開発のパイオニア。
人材開発の体系化と共に自身の成長も実感できた
兼務でハードな毎日でもピープル・ビジネスに魅了され充実した日々
プロジェクト活動は月1回のミーティングの中で全体像と具体的なツール開発を行なっていった。加えてJFCが開催する「ピープル・ビジネス・スクール」マネジメントコースの研修に参加することで、基本的知識を学習していった。
私はこのマネジメントコース受講が大好きだった。マネジメントや育成の重要性とポイントなど自分がほしい情報が満載で、毎回新たな知見に触れることができたからだ。またこれまでほとんど機会がなかった他業種の参加者との交流も刺激的で、それぞれの企業ステージや環境の違いから課題や対応策の違いがあることに気づきを得た。何よりもこのコースに参加するたびに自分が成長している実感を持てたのだった。
教育研修課の業務とこのプロジェクトの兼務、そして「ピープル・ビジネス・スクール」受講はハードであったが、時間を忘れるほど没頭した。
参加回数を重ねるごとに基本的な考え方を習得していった私は、いつしか講師の林俊範学長の個性あふれる独特な話し方までも真似するようになっていた。自分では無意識だったが周囲からの指摘を受けて気付いた次第だった。私にとっては、それほどこのコースの影響力が大きく、文字通り自分のベースになっていったのだった。