ドミノ・ピザとスターバックスに学ぶグローバルビジネス (第1回)ドミノ・ピザとの出会い

ピザ 宅配ピザ
本連載記事目次次の記事

昭和の黒船来航。出前文化へのあくなき挑戦。いち学生アルバイトを虜にさせた「ピープ・ビジネス」の醍醐味

この記事の目次

すべては熱烈なファンのお客様との出会いから

1985年9月30日
「広尾◯丁目、◯時◯分、いってきまーす」

元気な掛け声とともに日本のドミノ・ピザ一号店である恵比寿店がオープンした。
アルバイト第一号のメンバーだった私は、最初のピザをドキドキワクワクでデリバリーしたことを今でも昨日のことのように思い出す。

ドミノカラーを基調とした赤と青のユニフォーム、ピザを入れる大きなバッグ、初めて見る配達用の3輪スクーターはとにかく目立つ。多くの人が振り返り、中には「何屋さん?」と聞いてくるほどだった。

デリバリー先は広尾にある外国人専用マンション。高級感漂うエントランスに恐る恐る立ち、部屋番号を確認する。緊張感を抑えるために深呼吸してからインターフォンを押すと、ゆっくりと開いた大きな扉の先に満面の笑顔のお客様。研修で学んだ英語での対応を頭の中で確認するように復唱してピザをお渡しした。すると「部屋の中に入れ」という。日本でようやくドミノ・ピザを食べることができる…

その記念に写真を一緒に撮りたいというのだ。驚きと嬉しさを隠し切れず、言われるがままに記念撮影の中に加わった。こうして私のドミノ・ピザでの仕事がスタートした。

アルバイト応募の動機。最初に強く惹かれたこと

ドミノ・ピザとの出会いはその日から遡ること2ヶ月前の1985年8月初旬。真夏の蒸し暑い部屋で新たなバイト先を探すためフロムA(パート・アルバイト求人誌 リクルート社発行)を食い入るように読んでいた。見慣れたチェーン店の募集が並ぶ中に「日本初ピザデリバリー『ドミノ・ピザ』オープニングスタッフ募集中!」の言葉を見つけた。

当時の私はピザというものを食す機会もなく、デリバリーというものも今ひとつ理解できておらず、「ピザの出前かぁ…ET(1982年アメリカのSF映画。製作・監督スティーヴン・スピルバーグ氏)に出てきたヤツだなあ。あんな風に日本で利用する人いるのかなぁ」というのが最初の印象だった。そして「道もよくわかっていないのに都内で出前なんてできるかなぁ」という不安が湧き出していたため、一旦、候補の一つにして他の情報を探すことにした。

翌朝、これといった新たな情報を見つけ出すことができず、最初に強く惹かれた「アメリカからやってきた新たな商品とスタイル」「先輩を意識する必要がないオープニングスタッフ」や「他よりも高めの時給額」と求人広告にあったキーワードを応募動機に再確認して面接チャレンジすることを決めた。

歴史を感じさせる、重厚で超一流の面接会場にたじろいだ

1970年以降、マクドナルドやケンタッキーフライドチキン、デニーズなどのファストフードやファミリーレストランなどアメリカ発症のビジネスがどんどん日本で展開し、グルメブームの追い風も受けて新たなライフスタイルを作り出し輝きを増していた。

私はお客様としてそれらを利用することで、時代の流れに乗っている自分を演出していた。ただ、そこで仕事をしている自分はなかなかイメージすることができなかった。そのイメージとは、すでに出来上がっているあの素晴らしいイメージと雰囲気の中で、先輩たちのもとでマニュアルを理解して実践していく姿を自分に投影できずにいた。しかしながら、そのイメージは直ぐに現実のものとなった。

当時は海のものとも山のものとも言えないピザデリバリーは、先述の先陣を切って展開する大手チェーン店とは比較にもならない存在であった。しかし、自分にとってはなぜか大きな魅力を感じていた。「アメリカ発」「日本初」「ピザ」「デリバリー」…どれもが新鮮で魅力あるものだった。

今しかできないチャレンジと思って、断られれば仕方がないという気軽な気持ちが背中を押し、面接申込の電話をかけさせた。

面接会場は現在のザ・ペニンシュラ東京がある場所にあった日比谷パークビル。歴史を感じさせる重厚なそのビルの一角に(株)ワイヒガ・コーポレーション(現(株)ヒガ・インダストリー)のオフィスがあった。「ただのピザ屋さんなのに何で日比谷にオフィスがある??」と思いながらオフィスを訪ねた。

入口のドアを開けるとスーツ姿で経験豊富そうな貫禄あるおじさまたちが一斉に顔を上げて厳しい視線を私に向けた。社長室と思われる奥の部屋の前には、007に登場するマネーペニーのような秘書さんの席があった。初めて見る映画のような光景に一瞬「やばい!」と感じた。オフィスを間違ったのではと思いと合わせて、場違いな会社の面接に臨もうとしていると不安がよぎったのだ。

すると傍から明らかに他の方々と異なる気さくそうなおじさまが登場した。初代店長のSさんだった。S店長との面接内容はよく覚えていないが、前述の応募動機3点は話したように記憶している。ドミノ・ピザ事業は商社であるワイヒガ・コーポレーションが新規事業として立ち上げたものだとの説明を受け、それで超一流なオフィスであった理由も理解できた。

こうしてS店長との面接を経て、採用基準はどこにあったのかは別として、晴れてドミノ・ピザ第一号アルバイトメンバーの一人に選ばれることとなった。

マニュアルはA4でたったの4枚の紙だけだった

1985年8月下旬

目黒にある貸会議室にオープニングメンバーが集められた。メンバーとの初顔合わせ。初対面での会話に苦手意識はなかったもののやはり緊張する。一通り自己紹介を終えて、自分が最年長グループの一人だったことに少しの優位性と安堵の気持ちを持った。

これからの関係性作りには最初の立ち位置が重要であり、リードされるよりもする方が自分にとっても強みを発揮できると感じたからだ。そして集まったメンバーの大半の自宅は広尾・白金・恵比寿・中目黒・代官山のデリバリーエリアにあることを知り、セレブな仲間への驚きとともに配達ルートを教えてもらえるのでは、との期待が高まった。

研修もスタートし、運営会社であるワイヒガ・コーポレーションの紹介と説明の後、ドミノ・ピザの歴史や世界でも最大級のピザデリバリー企業であることを再確認した。商品説明、オーダーからデリバリーまでの一連の流れ、電話によるオーダー受注方法、配達先での対応の説明を受けた後、ロールプレイングを行うこととなった。研修テキストはそれぞれのステップとポイントが記されただけの手書きで、A4でたった4枚の紙だけだったのだ。

実はこの初日から3週間もの間、研修と称して参集されるものの、ロールプレイングによる受注と配達の対応練習、さらには地図を片手に大型マンションの場所を徒歩で確認しながら歩き回ることが続き、毎回2〜4時間で終了した。

「夏休みのバイト」のフレーズ付きで募集していたにもかかわらず、未だ店舗もできておらず、本物の商品を見る機会もなく、仕事のイメージを全く持つことなく続くロールプレイングから先行きの見えない不安によって不満の声が上がり出していた。

人生に影響を及ぼすことになった経営理念との出会い

オープン前の研修はやり方の理解が中心に展開されており、自ずと意識も仕事ができるようになることに向くわけだが、私が何よりも印象的だったのがMission Statement(経営理念)だった。

『熱くて素晴らしいできばえの美味しいピザを30分以内にお届けし、公正な価格で適正な利益を得る』

初めて触れた明確で具体的な経営理念を有する企業だった。その経営理念を自らが実践することがドミノ・ピザのビジネスの本質なのかと緊張したことを覚えている。

加えてミッションを体現するための時間を常に意識するという「H・T・A – Heightened Time Awareness」「HUTSLE!」のポリシーはワクワク感を高めた。

「H・T・A」とはオーダーからオーブンインまで3分、デリバリー完了までは23分といったオペレーションの各パート毎に目標タイムが設定されており、これらをクリアすることで30分以内のデリバリーを実現させるものだった。

「HUSTLE!」とは“3歩以上は小走りする”ことで時間と生産性を高める意識とハキハキした言動を通じて周囲に対するイメージアップを図ったポリシーだった。

ここまで細かく学生アルバイトに求めることは正直驚いたが、これによりデリバリー先でも玄関口まで小走りする習慣ができた。

研修を通じて改めてMissionを眺めてみると、これをいつも実現するためにポリシーを体現し、スキル習得することの大切さがよくわかった。これまで触れることのなかった企業理念というものは、目指す姿を明確に描くことでき、実践が容易でブレずに前進していくための道標なのだと感じた。

このMissionとの出会いが今後の自分の活動に大きな影響をもたらすこととなるなんて、思っても見ないことだった。

本連載記事目次次の記事
シェアお願いします
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
この記事の目次